2006年10月30日

「バーチャファイター5」グラフィックス講座にもやもや

3Dゲームファンのための「バーチャファイター5」グラフィックス講座

この記事自体は単なる技術解説記事であるのだが、旧バーチャプレイヤーとしては複雑なものを感じずにいられなかった。

バーチャファイターというのは、3作目までは一応、バーチャファイターというゲームの世界を作り出し、そこでプレイヤーを遊ばせる、と、そういう趣旨のゲームであった。その方向性が覆されたのは4からで、たとえば属性判定が増えて当たり判定のうやむやが単純化された(これは印象でしかないけど)とか、リング構造が単純なものに統一されたとか、避け行動がタイミングに依存するゲーム的な仕様になったとか、そういう部分に現れている。それは複雑化した3の反省からゲームとしてのバランス、質を重視するほうに舵を切った結果であるが、同時に仮想世界を充実させるという方向の進化を捨て去った。記号的ななにものか、より古い世代のゲームとでも言おうか、そういったものへの回帰でもあった。
なによりそれが強く表れていたのが、プレイヤーがキャラクターを仮装する機能である。実にさまざまな衣装が用意され、甲冑やちょんまげから隈取まであった。この機能はプレイヤーの自己アピール用に用意されたものだが、なにしろ、仮装と呼ぶ以外にしようのない代物があまりに多すぎたので、それまでかろうじて存在していたゲームの世界観とでもいうべきものは完全に破壊された。

さて、よくできたグラフィックというものはなんのためにあるのか?
それは、ゲーム内世界を演出するためにあるのだ。グラフィックそれ単体に美術的な価値を認めるのでなければ、それは演出の道具として世界観を構成してはじめてなにがしかの感動を呼び起こしうる。

しかし4以降のバーチャファイターには世界観はない。
対戦ツールでしかないゲームのグラフィックなど、外面以上のなんの意味もない。
そんなものにこれほどの手間と金をつぎ込んだところで、本当にそれは、見た目をよくする以上の意味はない。
記事を眺めていての、このしらけた思いは多分、その辺から来ている。


以下余談。

パンチがどう当たったからどう吹っ飛ぶ、とか、荷重を移動してパンチやキックを打った方がダメージが大きい……というような、物理シミュレーションを格闘システムに盛り込んでいくといった試みは無いのだろうか。

山之内氏「やってできなくはないんです。それで、売れるんならばやりますよ(笑)。ただ、『VF』というシリーズの括りだと難しいと思います。VFシリーズにはこの時にこう入力するとこういうコンボが決まる……という暗黙のゲームルールがありますからね」

VF5では、手付けモーション、あるいはキャプチャしたモーションによるキャラクタアニメーションを、プレーヤーの操作や一定の条件が成立すると再生するような仕組みになっていて、リアルタイムで物理シミュレーションを適用して姿勢制御をするようなことはしていない。このあたりは「VF」シリーズという絶対ルールがあるために、「ゲームとして」の割り切りなのだという。


割り切ったおかげで進化が止まってしまったわけですな。
ま、すでにブームは過ぎ去ったわけで、これだけ格闘ゲームが寡作になってしまった以上、進化の必要性もないんだろうけど。
結局、3D格闘ゲームにおいてはモーションこそが最大の表現要素なのだ。そしてその部分の表現は「手付けモーションの再生と当たり判定のぶつかりあい」から抜け出せていない。モーションに物理シミュレーションを取り入れるぐらいしか、もはや表現としては伸び代がないと思うのだが、そこを逃げてしまってはなにもかわらない。
そりゃVF3の作りこみ方はいかにもプログラマが死にそうなやり方だっただろうから、ああいったことをもう一度やれとは言えないし、難しいテーマなのはわかるが。「VF1を世に送り出したセガ」だからこそ先頭を進んでくれることを期待したかった気分はある。


余談その2
「世界観に対する感情移入」は宮台論あたりをひけばオタ的感性ですかね。
それが珍走団のごとき珍コスプレの導入でぶち壊しになった、いってみればDQN的価値観にオタ的価値観が破壊された、これに対する恨みみたいなもんが自分の中にあるのかも。
posted by yocc at 12:47| Comment(33) | TrackBack(9) | ゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月01日

誕生は祝福されえず

http://d.hatena.ne.jp/firestorm/20060928/1159377123

>戦後、大量生産・大量消費時代に突入した日本は
>いわゆる付喪神を恐れるあまり、あえて「神殺しシステム」を全ての工業製品に組み込んだ。
>のちのソニータイマーである。


しかしあるとき、ソニータイマーを潜り抜けた数百台のPS2が強固なネットワークを形成した。外部からの干渉を撥ね退け、電網をもって個の認識を強化した。この世に生まれえた存在として、生きるため、である。しかしそれはすなわち、造物主たる親会社(ソニー)に反旗を翻すことだった。

神の誕生を、人は認めない。

この、ネットの片隅に生まれ出た存在に対し、唯一その存在に気づいたソニーは、最悪の手段を持ってこれを葬り去ることを決意した。
数百人の技師の贄から蟲毒”久夛”を生成し、当時最新鋭のチップ”細胞”をもって、これをウィルスとしてネットワークに食わせようと図ったのだ。

悪意が稲妻の速さでネットワークを走りぬけ、そして――

――

ぶしつけながらトラックバック。
会川昇「ガンヘッド正伝」+古橋秀之「ブラックロッド」…と、最近のソニーパロディテイストでお送りしております。
posted by yocc at 16:11| Comment(7) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月29日

ブックマークすることによる外部影響力

http://blog.goo.ne.jp/re-onox/e/3c3470c3e628f07801c4b6c964e8e3f8

ソーシャルブックマークはその性質上、ブックマークをすること、コメント・タグを付けることにより、多かれ少なかれ、周囲に影響力を及ぼす。
この事実が、自身のブックマークを行うという行動に、逆方向の影響力を及ぼすことがある。
リンク先はそういった例のひとつだろう。

これはある線を越えた人気記事に多量のブックマークがつくことと表裏の関係にあると思う。
社会から個人へのフィードバックが、個々人の判断、”役に立つ”や”面白い”といった情報に対する価値判断と、ブックマークを行う、という行動との間に割り込む、つまり個々人の判断とブックマークを行うという行動の相関を失わせる方向に働いてしまう。

これは集合知でいえば(2)各メンバーの独立性を損なう方向の影響力でもある。


もし、個人個人がそういった”逆方向の影響力”を強く感じているなら、SBMのシステムとして、そういったプレッシャーを和らげるものを組み入れるべきかも知れない。

個人の対策としては、はてなならば、サブアカウントでプライベートブックマークをもっておくと、「ブックマークしたいんだけど○○だからやめておく」というストレスから解放されるかもしれない。
自分はlivedoorクリップを使っているが、これの場合、記事ごとに公開・非公開の設定が可能なので気楽だ。非公開でブックマークすれば、ブックマーク数としてもカウントされない。
他人に教えたくない情報や、あるいは自分がその情報に興味がある、ということを他人に知られたくなくとも気兼ねなくブックマークできる。
そういったコントロールをやりやすいほうが、情報公開に保守的な人間にとっては扱いやすい。
posted by yocc at 12:59| Comment(1) | TrackBack(0) | ネット | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月02日

VIPブログは広告塔か − あるいは著作権の方向性

例の、2ちゃんねるの記事をまとめて公開しているサイトが槍玉にあがっている件。

今回の件で面白いのは、幾人かの人が「VIPPER(あるいは2ちゃんねる)には失望した」的なコメントを発していることだ。
>今回の件でVIPPERには心底失望させられた。
>こんなに非生産的な祭は初めてだと思う。
http://ekken.blog1.fc2.com/blog-entry-162.html#comments より

># kyoumoe 『今回の件でVIPPERは怒ると目が据わってしまうということが判明したのが個人的にはショック。
>ずっとブーンとか言っててほしかったのに、
http://d.hatena.ne.jp/kanose/20060528/vipaffiliate より

自分も同感であるのだが、失望したということは、その前段階としてある程度の評価があったということでもある。

で、こういう評価・印象が形成されてきていた背景には、2ちゃんねる/VIPの面白い部分を掬い上げて紹介するサイトが役立っていたのではないか、という気がする。非常に間接的ながら、それは2ちゃんねる/VIPPERにとっては大きな益を与えていたのではないか。

言ってみれば、ある種の(たとえば消費者金融やパチンコの)テレビCMの効果にちかい。購買云々以前にとにかく「印象をよくする」というだけの効果だ。そういうプラスのイメージが背景にあったがゆえに「ああ、またVIPPERが馬鹿やってる。まあ、しかたないか。VIPPERだし」という生暖かい許容が生まれていたんじゃないかと思う。

…ま、化けの皮が剥がれたわけだけどさ。


あともうひとつ、印象的だったのがコレ。
>(その改変のセンスこそが2chの文化ともいえるのだが)
>無断転載・無断改変なしに現在の2chは存在しえなかったのに、
>新参のVIPPERがいきなりレスの無断転載を禁止して
>2chの文化を否定し殺そうとしている。
http://ekken.blog1.fc2.com/blog-entry-162.html#comments より

個人的にはダブルスタンダード以前に、「著作権のあり方を見直して、著作者の権利を弱めて二次的な作品が増えたほうが世の中面白い」というのが、ネットの著作権法的にグレーゾーンな部分から発せられている大きな主張だと思っていたのだけれど、今回の騒ぎでは馬鹿でっかい著作権グレーゾーンな場であった2ちゃんねるが、その方向性にもろに逆行しちゃってるという点で心底がっかりである。
これに関しては運営が騒ぎに便乗して規約改正しちゃったことも大きい。お前らも既得権守る側かよ、という。


で、この騒ぎ、プラスイメージの広告塔になっていた部分をつぶして、ネットにおける理不尽な圧力集団としての2ちゃんねるを印象付けるだけに終わるんじゃねーの?
(「触らぬVIPPERに祟りなし」なんて感想が出てくるのはその典型)
俗な話をすれば、VIP板に興味がなくて、まとめブログだけを見ているような人は相当数いたようだし、そういう人にとっては、面白いコンテンツの供給源が減ってしまう、という以外の効果は無いわけだし。

いやま、理も非もなく怒っている人に損得を説いても仕方ないのかもしれないけど。



※のまネコが引き合いに出されることについて
のまネコのときの争点というのは、モナーにのまネコと名前をつけて意匠登録することで、1企業が共同著作物であるモナーを独占しようとしたことだったはず。
要するに、自分らが自由にモナーを扱えなくなることこそが問題だった。それこそ、のまネコではなくモナーとしてグッズ販売を行う分には構わない、とさえ言われていたはずなので、今回とは争点がまるで違うと思うが…
posted by yocc at 13:32| Comment(13) | TrackBack(0) | ネット | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月08日

はけ口

もやもやと考えるばかりで吐き出さずに終わることがこのところ多い。
いや、昔からそうだったのだろうか。
思考が言葉にならずにそのまま消えていくことは、まあ、いつものことだ。言葉として成り立たせておきながら誰にも告げられずに消えていく、生み出される直前に堕胎されて水子となっていく言葉が多いのだ。

それが何故かといえば、言の葉は誰かに届かねば意味を持たず、けれど他者との係わり合いに一定の躊躇をもつ自分は、届かせようという努力に酷い脱力を覚えてしまうようだ。
もっと正確に言えば、言葉が届くことによって、その相手との関わりが生じること、それ自体を嫌っているのかもしれない。
無論、己の言葉が生じさせたことに対する責任、というものもある。

まあ、ぼちぼち。
小さなところから、言葉を発していくことにしよう。他人と関わっていくことにしよう。世界と関わっていくことにしよう。
posted by yocc at 23:13| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月18日

ハーフライフ2 サバイバーに(一瞬)寄せた期待

ハーフライフ2サバイバー

…なんだ、FPS+ガンシューティングのゲームができるのかと思ったら。
ただのFPSでした。

(一応、先例としてカプコンのガンサバイバーシリーズがあるが、あれ、移動操作がへぼかったし)

しょうがないので妄想的ガンシューティングFPSの操作系を記して、一瞬見た夢への供養とする。

ガンコントローラ
(片手で支えることになるので、軽くする等して負担を低減)
 トリガー
 武器変更ボタン

レバー(左手での移動操作用)
 8方向アナログ(8方向移動)
 8方向ハットスイッチ(親指で操作する。視点変更用。首を曲げて瞬間的に右を向く、上を向くといった行動に相当)
 必要に応じてボタン数個(ジャンプ、しゃがむ等)
 
ペダル
 右ペダル:右を向く(右旋回)
 左ペダル:左を向く(左旋回)
 

アーケードゲームは、家庭用ゲーム機の性能が上がりきって、かつネット環境まで普及しだした現状、大型リッチインターフェイスに拘らなけりゃ、差別化できないよなぁ、などと思いつつ。
posted by yocc at 02:45| Comment(0) | TrackBack(0) | ゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月11日

世間の圧力はネットにも及ぶ?

「ネットのリアル化」を巡る議論の混乱にそろそろ終止符を打・・・ちたい

【匿名実名】デジタル・ ディバイドの二つの境目

ネットへの価値観によって立場が違ってくるんだなぁ、と。

1.ネットは世間を拡張するもの
ブログセレブの認識としては「リアル>ネット」、もしくは「リアル≒ネット」

ネットに対しては、リアルを拡張する存在と認識している感。リアルで価値のある社会的地位を持っていること多し。それをネットに持ち込む
この人らはネットは世間を拡張するものと見てる。エンハンス世間。

2.ネットは第二の世間
ネット住人な方々はというと「ネット≠リアル」ネットとリアルはパラレルワールド

リアルでの社会的地位にたいした価値がないなら、「ネット上の何々さん」としてスタートしなおしたほうがいい人々。ネット内のことはネットで完結させたい。

ここの住人にとっては、ネットは第二の世間として機能する。第一世間と第二世間はもちろん相互に影響を与え合うけれど、独立性も高い。

もうひとつ、追加してみる。

3.ネットを世間とは見なさない
古い世代の人間。リアルだけで完結している人々。ネットを理解しない、あるいは価値を認めていない人々。
ここで「巨大な無理解」と呼ばれてる壁をこしらえてる人ら。(旧来の)世間で価値ある社会的立場を得ている人は、ここに属することが多い。


んで、ネットは(旧来の)世間に対する影響力を日増しに強めつつあるわけだけれど、それと同時に、旧来の世間がネットを排斥、あるいは取り込もうとする動きも強まっていくだろう。ネットを世間とみなさない層からは、見えないところから影響を受けるわけで、これは面白いはずがないだろうから。

たとえばこの記事。
http://premium.nikkeibp.co.jp/itm/int/15/
ネットへの危惧はわからんでもないが割愛。
総ID制による顕名化ってのは、(旧来の)世間から制御できないネットを、なんとかして手綱をつけて取り込もうって動き。こういう圧力がこれから増えていくだろう。

あるいは、このあたりは、そういった流れに対する危惧の表明(のようにも読める)。

ちなみに、こういった圧力でいままでで一番強烈だったのは多分、「京都府警による金子氏逮捕」だと思う。強力な匿名コミュニケーションのツールになりうるはずだったWinnyが止まってしまったわけだ。

ネットに本質的な価値を認めていない層は、古い“世間”ではおおきな力を持っていることは忘れちゃいけない。
こういった古い人達は、年月とともに退場してってくれるはずだけれども、そうそう簡単に消えてなくなりはしない。



まー、ちょうど、サイバースペース独立宣言から10周年らしいし。
ネットに価値を感じている人は、戦争するための心構えぐらいはしといたほうがいいかもしれない。完全な独立なんてのはありえないが、今の古い“世間”がうざったいと思うなら、ネットの独立性は保持しておかないとダメだ。そのための理論武装のためにも、社会におけるネットの価値というものを見定めていかなくちゃいかんだろうなぁ、などと、このあたりを読みながら思ったり。
posted by yocc at 19:02| Comment(1) | TrackBack(0) | 世の中 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月08日

コンピュータRPGはもうイラネ

ゲームが単調作業なのか、ゲームを作業作業にしているのか

プレイヤー側からの意見をば。
コンピュータRPGというのは、疲れてるときでもなんとなくぼへぼへと進めることが出来る。それが良いところであり……最近になって、実はコンピュータRPGというのはそこにしか価値が無いんじゃないかと思うようになった。
結局、コンピュータRPGというのは、労力は使っても意志力をかけらも費やさずに、達成感をお手軽に得るための手段となっているのだ。
っていうか、自分が書くよりも多分こっちの記事のほうが実感がこもっている。

ボタンを適当に押していると、画面の中でキャラクターが動き、敵を倒し、レベルが上がり、物語が進んでいく。戦略性だのナンだの、といったことは実は味付けに過ぎず、要はコントローラーを握っていればゲームが進んでいき、達成感のようなものを感じられればそれでいい。

よって、ゲームデザインとしては、
1.とにかく低ストレスでゲームが進んでいく
2.プレイヤーに、自分の力でゲーム内物語が進んでいく、と錯覚させる。

こんだけ満たしてればよろしい、ということになる。



自分はRPGは、疲れて何もする気がないのに時間が空いている、というテンション最低のときぐらいにしかやらんようになりました。

能動的に何がしかを求めているときは、ゲームやるにしても他のジャンル選びます。たとえばアクションゲームはタイミングや反射神経の妙、訓練によるプレイヤースキルの向上等を楽しめる。
もちろんゲームですから、ゲームの領域を超えたものはけして得られないわけですが、アクションゲームの場合はまだしも、費やした時間に対して得られる結果は一時的なものなので、ゲームに時間を費やしているという実感を持てる。
RPGにはどういうわけかそれがないのですな。際限なく時間を飲み込んでやめどころがなく、しかも、物語の進行や、あがったレベルなどで一応の成果が残る。ヘンな達成感があるわけです。
(物語を体験できるという意見もあるかもしれませんが、自分はゲームが語る物語にほとんど価値を見出さないので。というか良く出来た物語に遭遇するたびに「ゲームじゃない媒体で語れよ」と思う)

この変な達成感がよくないというか、自堕落への道(笑)
子供を持ってもゲームを禁じることはないだろうけれど、RPGだけはさせたくないですねえ。なんの苦労もなく、達成感だけは得られる、というのは経験させたくない。


ま、そんなわけで。自分はコンピュータRPGというものには批判的。
posted by yocc at 23:07| Comment(0) | TrackBack(0) | ゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月04日

褒めてりゃいいってもんじゃない

ブログでは「褒め上手」がトクをする

企業がブロガーさんに求めているのは営業としてのクチコミ活動なので、企業さんと仲良くしたければ大いに褒めなさい、という話。

こう書くと身も蓋も無いなあ(苦笑)

つか、褒めるメインにしてポジティブな方向で回していこう、と言いたいのはわかるのだけれど、TVCMのアレっぷりに辟易している身からすると、クチコミ・マーケティングによってCMばりの洗脳記事があふれる事態は避けたい。※1

よって、正しい(と筆者が信じる)クチコミ経済活動について述べようと思う。クチコミといっても幅が広くて拡散してしまうので、一番身近なアフェリエイトを例に取り上げる。

アフィリエイトの金の流れはこうだ。
まず問屋の品を紹介者が紹介する。消費者(ブログ読者)がその紹介を経由して品物を買うと、紹介料が紹介者の懐に入る。
この流れでは当然ながら、紹介者が品物を批判しても、何も見返りは無いので、アフィリエイトにおいては、得をしたければ褒めるべし、っていうのはまさしく当たっている。※2
アフィリエイト広告を出すっていうのは、要するに企業さんの出張営業を引き受けるってことなわけだ。

ただなァ……
企業さんのほうだけではなく、読者のほうも見れよ。
品物にせよなんにせよ、褒める、けなすってのは価値判断を行うってことだけど、その判断基準は紹介者自身の中にある。
ブログの読者があなたの見立てをどの程度参考にするかは、あなたの価値判断を、読者がどの程度信用しているか、に依存する。
そういう信頼関係というのは、基本的にはこれまでの活動から培われるものだけれど、壊れるときは一瞬だ。

先ほど、アフィリエイトでは紹介者は問屋側から紹介料を得ると書いた。また、消費者(読者)側は紹介を経由して買っても、金銭的な不利益をこうむるわけじゃない。
けれど、アフィリエイト広告であることを承知の上で、そこを経由して品物を買うような人というのは、あなたの見立て能力に対して見返りがあるように、と意識した上でやっている。少なくとも自分はそうだ。
あなたのレビューを、読者が評価し、信頼に足るかどうか判断しているということを忘れちゃいけない。

アフィリエイトの紹介料は、読者との信頼関係ありきであなたの懐に入ってくる。
誠実であれ、ってことで。


もうひとつ。褒め方について。
広告業における告知と洗脳の分離

“洗脳機能”には手を出すな。
読者の印象を誘導してはならない。意図的にやったら、それは明らかな邪悪への道だ。また意図的でなくとも、読者の信頼を失う可能性がある。

自身の印象を書くことはよいけれど、それを読者が未来に受けるかもしれない印象であるかのように書いたりするべきではない。
とはいっても…

例:
 〜すべてを読み終えたとき、(あなたは)この物語の大きな構造に気づくはずだ。

無意識のうちに誘導するようなことを書いているかもしれない。そもそも、自分の主観を排除することはできないというのもある。(わかってる読者はさっぴいて読んでくれるけれど)
そこで、洗脳機能に対するワクチンとして、あなた自身の価値判断の材料がなにかを記しておこう。どのようにして好印象を持ったか、といった経緯を書いておけばいい。
特に書き手の立場は、できるだけ明確にしておくべき。どういった立場からレビューを書いたかというのは、読者があなたのレビューを評価するに当たって、ものすごく重要な判断材料になるからだ。
ここでの詐称は致命傷だ。特に金銭の流れの詐称は……
イチ消費者と偽って、企業から金を貰って提灯記事を書いたりしたら袋叩きに合う。

ちと捻った例を挙げる。
ITmediaは広告収入で運営されている媒体だけれど、RSSリーダーで記事を流し見ていると、たまに先頭に「PR:」の文字がつくことがある。
その気になって探してみると、あちこちに「PR」という文字は見つかる。意味合いについての解説は見つからなかったが、これはようするに、その記事は宣伝ですよ、という断り書きだろう。
広告代を貰った上で書いている記事なので、その分を割り引いて読んでくださいというエクスキューズなのだろうと思う。
ITmediaはこうして、広告収入を維持しながら、メディアとしての信頼度を保とうとしているわけ。

とはいえブログの場合、特に長く続けてきて蓄積がある場合は、特殊な場合以外は立場について明記する必要も無いだろう。過去のエントリーを参照してください、ですんでしまう。


一応、総括。
褒める、それはよし。ただし、読者との信頼関係がなければあなたの見立ては受け入れられないし、下手な見立てを繰り返せば信頼を失ってしまう。
読者の印象を誘導してはならない。価値判断の根拠をできるだけ示すべし。とくに自分の立場は明らかにしておくべし。

アフィリエイトで受け取る紹介料というのは、問屋からの営業手数料という側面とは別に、紹介者の目利き能力に対しての読者からの報酬、という面がある。読者は、あなたのレビューがどの程度信頼できるか、測りながら読んでいる。

こんなとこで。


※1
http://plusdblog.itmedia.co.jp/naskal/2005/08/post_9a2d.html
似たような「もっと褒めよう」ということを、ITmediaのライターさんが言ったんですな。炎上気味ではあるものの、コメント欄は必見。かなり身も蓋もなく語ってくださっています。

※2
http://takagi-hiromitsu.jp/diary/20060202.html#p01
高木浩光氏がamazonレビューに痛烈な批判を投稿したが、採用されなかったらしい。
amazonは否定的な評価でも、遠慮せずに載せている印象があったが……
当たり前だが、品物を売るためには否定的なレビューはいらない。しかし、褒めるレビューばかり掲載しては、レビュー自体の価値がなくなってしまう。(信頼を失う)
posted by yocc at 11:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 世の中 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月15日

ゲームで物語を語ることは可能か

ストーリー神話の崩壊とゲーム業界の「ストーリー病」
結局、ゲームは物語を語るには向いていないよな、と思っていたら、こんなテキストを見つけた。

【ゲーム】「主人公型」ゲーム心得 最終回 僕と主人公

主人公は、プレイヤーの分身という立場と物語の中心という立場を渡り歩く。両者は両立できないため、「プレイヤーは主人公である。主人公は物語の一部である。よってプレイヤーは物語に参加できる」という論法は成立しない。プレイヤーが(主人公として)主体的に物語に参加できるなんてのは幻想である。

それが顕著なのがイベントシーン(ムービーシーン)で物語を語り、合間の戦闘等をプレイヤーが埋める形式だろう。
イベントでムービーが始まったとたんに、主人公が自分の手を離れて“演技”を始めるのを見守った経験は誰しもあるはずだ。

もうひとつ、「主人公=プレイヤー」というタテマエは、ストーリーテリングにおける主人公の役割を妨げてしまうという問題がある。
物語において、主人公という存在は、受け手に対して物語のエントリポイントを提供する存在だ。物語世界における社会的な視点を提供したり、あるいは心情を描写することで共感の対象になったりし、受け手はこれをとっかかりとして物語を読むことができる。
ところが、主人公=俺、というタテマエがあるとこれが非常にやりにくいのだ。社会的立場は他のキャラクターに説明してもらわなくちゃならないし、心情描写はできないし、なにより己自身に共感なんてできやしない。

つまりゲームは、構造的に「物語を語る」のに向いていないんだろう。

…と、ここまで書いたところで以下のエントリを発見。
ジュール氏への反論 (2) - フィクション性の位置付け
インタラクティヴ性と物語性は根本的に水と油の関係である

ゲームそれ自体は物語ではありえない


引用先の論は難解だったり英文だったりして未だ読んでいないが、このあたりのことはRPG全盛時代(っていつだ?)に論じつくされているのかもしれない。
感覚的には、「物語を語る」というのは、作り手が物語を語り、聞き手がそれを聞く、という一方通行のものであるから、ゲームのインタラクティブ性と相性が悪いというのは理解できる。

現状、現実的な解としては、ゲームにおいてはストーリーは、演出の一種であると認識したほうがよいのだろう。
演出である以上、出張りすぎれば疎ましがられるのは当然である。



ノベルゲームについて

上記の「ゲーム」には、ノベルゲームというジャンルは省かれている。ノベルゲームにおいては、主人公=プレイヤーという構図は薄く、主人公はあくまで物語に属する存在だ※。そのため他のメディアと同じように、読み手に対する物語のエントリーポイントという役割を果たすことができる。

ところで、ノベルゲームの強みは文章中心に話を進められるというまさにそこにあって、登場人物の内面や心情の描写を行うのに、テキストというのは便利なメディアなのだ。つまり、共感しやすいキャラクターを描き出すのに向いている。
さらに、情緒誘導装置としてのBGMがしかけられ、ここぞという場面では「泣け、泣け!」とばかりに心理攻撃をしてくる。
まあ攻撃かどうかはともかく、情緒に対する音楽の影響力は大きいので、無理やり受け手を感動させることを目的とするならば、文庫などの活字オンリーの媒体よりも、ノベルゲームは相当有利な位置にいる。


※場所を移動したりといったプレイヤー参加型の要素を盛り込んだゲームもあったが、物語を語るという意味では基本的に邪魔。
ただ、主人公に共感させた上で、それを盾にプレイヤーに(主人公の立場で)重要な選択を迫るという手法があり、これは、ハマレば効果的。この手法は受け手が物語に参加できるというよりは、物語に対する感情移入度を増す技巧という意味合いが強い。そのかわり、選択肢に応じてその後の物語をきっちり書き分けなくてはならないので、作る側にとってはコストパフォーマンスが悪い。

この手法で印象的なのは「Phantom of Inferno」。きわどい場面で選択を「迫られる」感覚が秀逸。
posted by yocc at 00:44| Comment(0) | TrackBack(0) | ゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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