2006年01月15日

ゲームで物語を語ることは可能か

ストーリー神話の崩壊とゲーム業界の「ストーリー病」
結局、ゲームは物語を語るには向いていないよな、と思っていたら、こんなテキストを見つけた。

【ゲーム】「主人公型」ゲーム心得 最終回 僕と主人公

主人公は、プレイヤーの分身という立場と物語の中心という立場を渡り歩く。両者は両立できないため、「プレイヤーは主人公である。主人公は物語の一部である。よってプレイヤーは物語に参加できる」という論法は成立しない。プレイヤーが(主人公として)主体的に物語に参加できるなんてのは幻想である。

それが顕著なのがイベントシーン(ムービーシーン)で物語を語り、合間の戦闘等をプレイヤーが埋める形式だろう。
イベントでムービーが始まったとたんに、主人公が自分の手を離れて“演技”を始めるのを見守った経験は誰しもあるはずだ。

もうひとつ、「主人公=プレイヤー」というタテマエは、ストーリーテリングにおける主人公の役割を妨げてしまうという問題がある。
物語において、主人公という存在は、受け手に対して物語のエントリポイントを提供する存在だ。物語世界における社会的な視点を提供したり、あるいは心情を描写することで共感の対象になったりし、受け手はこれをとっかかりとして物語を読むことができる。
ところが、主人公=俺、というタテマエがあるとこれが非常にやりにくいのだ。社会的立場は他のキャラクターに説明してもらわなくちゃならないし、心情描写はできないし、なにより己自身に共感なんてできやしない。

つまりゲームは、構造的に「物語を語る」のに向いていないんだろう。

…と、ここまで書いたところで以下のエントリを発見。
ジュール氏への反論 (2) - フィクション性の位置付け
インタラクティヴ性と物語性は根本的に水と油の関係である

ゲームそれ自体は物語ではありえない


引用先の論は難解だったり英文だったりして未だ読んでいないが、このあたりのことはRPG全盛時代(っていつだ?)に論じつくされているのかもしれない。
感覚的には、「物語を語る」というのは、作り手が物語を語り、聞き手がそれを聞く、という一方通行のものであるから、ゲームのインタラクティブ性と相性が悪いというのは理解できる。

現状、現実的な解としては、ゲームにおいてはストーリーは、演出の一種であると認識したほうがよいのだろう。
演出である以上、出張りすぎれば疎ましがられるのは当然である。



ノベルゲームについて

上記の「ゲーム」には、ノベルゲームというジャンルは省かれている。ノベルゲームにおいては、主人公=プレイヤーという構図は薄く、主人公はあくまで物語に属する存在だ※。そのため他のメディアと同じように、読み手に対する物語のエントリーポイントという役割を果たすことができる。

ところで、ノベルゲームの強みは文章中心に話を進められるというまさにそこにあって、登場人物の内面や心情の描写を行うのに、テキストというのは便利なメディアなのだ。つまり、共感しやすいキャラクターを描き出すのに向いている。
さらに、情緒誘導装置としてのBGMがしかけられ、ここぞという場面では「泣け、泣け!」とばかりに心理攻撃をしてくる。
まあ攻撃かどうかはともかく、情緒に対する音楽の影響力は大きいので、無理やり受け手を感動させることを目的とするならば、文庫などの活字オンリーの媒体よりも、ノベルゲームは相当有利な位置にいる。


※場所を移動したりといったプレイヤー参加型の要素を盛り込んだゲームもあったが、物語を語るという意味では基本的に邪魔。
ただ、主人公に共感させた上で、それを盾にプレイヤーに(主人公の立場で)重要な選択を迫るという手法があり、これは、ハマレば効果的。この手法は受け手が物語に参加できるというよりは、物語に対する感情移入度を増す技巧という意味合いが強い。そのかわり、選択肢に応じてその後の物語をきっちり書き分けなくてはならないので、作る側にとってはコストパフォーマンスが悪い。

この手法で印象的なのは「Phantom of Inferno」。きわどい場面で選択を「迫られる」感覚が秀逸。
posted by yocc at 00:44| Comment(0) | TrackBack(0) | ゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月02日

リプレイ流通

プレイヤー側が生成できるコンテンツの中で、現状のデザインのゲームでも生成できるものが「リプレイ動画」「スクリーンショット」の類である。

よく出来たアクションゲームでは、上手いプレイヤーのリプレイ動画は大きな価値があるのだ。
また、自分の傑作プレイや、笑えるプレイを他人に見せたいという需要もある。

これをはやくプレイヤーに開放して、手軽に流通できるシステムを作って欲しい。
ゲーム個々でやるのはあほらしい。
たとえばXBOX360なら、駆動できるスレッドがひとつあいてたら、360のOS側で手軽に圧縮・保存・配信が行えるような仕組みを作って欲しいものだ。


とりあえずはサービスで、どう収益するかというモデルは無い。
んだが、たとえば格闘ゲームの大会決勝戦のリプレイなんていろんなやつがみたがる(大会がちゃんと盛り上がればな!)だろうし、大勢のヤツがみたがるなら、当然、そこには価値が出てくる。
posted by yocc at 21:53| Comment(0) | TrackBack(0) | ゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

オンラインゲームの先の話

回線を通して接続される多数のプレイヤーをもっとも価値あるリソースであると認識すれば、現状はGoogle搭乗以前のWebになぞらえることができるかもしれない。

日本でもようやく、全てのゲーム機で端末機能が付き、常時接続回線が当たり前の状況になって、オンラインプレイヤーをリソースとして計算できる状況に入りつつある。
が、現状のままでは十分に活用できない。多くなったらなったで、玉石混交状態のプレイヤーの中から、誰を使えばいいかわからないからだ。
(自分はそれほど既存のオンラインゲームを遊びこんだわけではないが、現状はまず、自分にあったプレイヤー層を見つけるところから始める必要があり、これが一苦労。またハズレのプレイヤーに当たる確立もけっして低くは無い)

これを十全に活用するには、信頼できる評価軸が欠かせない。
たとえば、あるゲームの腕前に対する適切な評価軸があれば、以下のようなことが出来る。

・多人数プレイにおける適切なマッチング
・オープニングの単調なデモの代わりに、上手なプレイヤーのプレイを配信する

ゲームのアルゴリズム側から、使い潰せるのがミソである。

あるいは、「遊び相手として楽しいプレイヤー」という評価軸を得られれば、評価の高いプレイヤーになることにインセンティブ(端的にはなんらかの報酬)を与えることで、サービス全体の価値を高めることも出来る。
まあ、このあたりはやりすぎるとこのへんの状況を再現しかねない気もするが。結局はコミュニケーション能力や人気序列の評価になりそうだし。
とはいえ、オンラインゲームのプレイヤーというのは、本質的にサービス受益者であると同時にサービス提供者でもあるので、より良いサービスを提供するプレイヤーほど良い目(報酬)を得られるようにすべきとは思う。
無論、こういった報酬のシステムは、ゲームシステムの中にそれとなく入れ込むことで環境管理を行うのが最良なのではあるけれど、個々のゲームでそこまで考慮したうえでデザインを行うのは結構なコストだし、どのスタイルのゲームでもできるわけではないので、ベースとなるサービスでやってしまったほうが効率がいい。

まとめると、プレイヤー達には価値があり、ただし玉石混交で、そのなかで価値のあるプレイヤーを引っ張り出してリソース(コンテンツという呼び方も通じるんかね?)として駆動させるには、それなりに精度のよい評価軸が欲しいよ、とそういう話。

トラックバック先での「Gameの立ち位置はWebになぞらえるとどうなる?」という問い?には、Google登場以前てことで、1.0ぐらいじゃないかな、と。

ちなみに、次世代機の中では、LIVEはこの方向に進んでいる。が、どこまでいけるか。現状はややこしさばかりが先にたって、メリットが見えにくいようだ。
任天堂のサービスは、フレンドリストの内輪プレイヤーか、不特定多数か、だけが評価軸の模様。細かいところは個々のゲームで対応するスタイルで、上でいったような観点からは物足りない。
PS3に関しては、未だなにも打ち出していないので論外。
posted by yocc at 21:34| Comment(1) | TrackBack(3) | ゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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