結局、ゲームは物語を語るには向いていないよな、と思っていたら、こんなテキストを見つけた。
【ゲーム】「主人公型」ゲーム心得 最終回 僕と主人公
主人公は、プレイヤーの分身という立場と物語の中心という立場を渡り歩く。両者は両立できないため、「プレイヤーは主人公である。主人公は物語の一部である。よってプレイヤーは物語に参加できる」という論法は成立しない。プレイヤーが(主人公として)主体的に物語に参加できるなんてのは幻想である。
それが顕著なのがイベントシーン(ムービーシーン)で物語を語り、合間の戦闘等をプレイヤーが埋める形式だろう。
イベントでムービーが始まったとたんに、主人公が自分の手を離れて“演技”を始めるのを見守った経験は誰しもあるはずだ。
もうひとつ、「主人公=プレイヤー」というタテマエは、ストーリーテリングにおける主人公の役割を妨げてしまうという問題がある。
物語において、主人公という存在は、受け手に対して物語のエントリポイントを提供する存在だ。物語世界における社会的な視点を提供したり、あるいは心情を描写することで共感の対象になったりし、受け手はこれをとっかかりとして物語を読むことができる。
ところが、主人公=俺、というタテマエがあるとこれが非常にやりにくいのだ。社会的立場は他のキャラクターに説明してもらわなくちゃならないし、心情描写はできないし、なにより己自身に共感なんてできやしない。
つまりゲームは、構造的に「物語を語る」のに向いていないんだろう。
…と、ここまで書いたところで以下のエントリを発見。
ジュール氏への反論 (2) - フィクション性の位置付け
インタラクティヴ性と物語性は根本的に水と油の関係である
ゲームそれ自体は物語ではありえない
引用先の論は難解だったり英文だったりして未だ読んでいないが、このあたりのことはRPG全盛時代(っていつだ?)に論じつくされているのかもしれない。
感覚的には、「物語を語る」というのは、作り手が物語を語り、聞き手がそれを聞く、という一方通行のものであるから、ゲームのインタラクティブ性と相性が悪いというのは理解できる。
現状、現実的な解としては、ゲームにおいてはストーリーは、演出の一種であると認識したほうがよいのだろう。
演出である以上、出張りすぎれば疎ましがられるのは当然である。
ノベルゲームについて
上記の「ゲーム」には、ノベルゲームというジャンルは省かれている。ノベルゲームにおいては、主人公=プレイヤーという構図は薄く、主人公はあくまで物語に属する存在だ※。そのため他のメディアと同じように、読み手に対する物語のエントリーポイントという役割を果たすことができる。
ところで、ノベルゲームの強みは文章中心に話を進められるというまさにそこにあって、登場人物の内面や心情の描写を行うのに、テキストというのは便利なメディアなのだ。つまり、共感しやすいキャラクターを描き出すのに向いている。
さらに、情緒誘導装置としてのBGMがしかけられ、ここぞという場面では「泣け、泣け!」とばかりに心理攻撃をしてくる。
まあ攻撃かどうかはともかく、情緒に対する音楽の影響力は大きいので、無理やり受け手を感動させることを目的とするならば、文庫などの活字オンリーの媒体よりも、ノベルゲームは相当有利な位置にいる。
※場所を移動したりといったプレイヤー参加型の要素を盛り込んだゲームもあったが、物語を語るという意味では基本的に邪魔。
ただ、主人公に共感させた上で、それを盾にプレイヤーに(主人公の立場で)重要な選択を迫るという手法があり、これは、ハマレば効果的。この手法は受け手が物語に参加できるというよりは、物語に対する感情移入度を増す技巧という意味合いが強い。そのかわり、選択肢に応じてその後の物語をきっちり書き分けなくてはならないので、作る側にとってはコストパフォーマンスが悪い。
この手法で印象的なのは「Phantom of Inferno」。きわどい場面で選択を「迫られる」感覚が秀逸。