2006年10月30日

「バーチャファイター5」グラフィックス講座にもやもや

3Dゲームファンのための「バーチャファイター5」グラフィックス講座

この記事自体は単なる技術解説記事であるのだが、旧バーチャプレイヤーとしては複雑なものを感じずにいられなかった。

バーチャファイターというのは、3作目までは一応、バーチャファイターというゲームの世界を作り出し、そこでプレイヤーを遊ばせる、と、そういう趣旨のゲームであった。その方向性が覆されたのは4からで、たとえば属性判定が増えて当たり判定のうやむやが単純化された(これは印象でしかないけど)とか、リング構造が単純なものに統一されたとか、避け行動がタイミングに依存するゲーム的な仕様になったとか、そういう部分に現れている。それは複雑化した3の反省からゲームとしてのバランス、質を重視するほうに舵を切った結果であるが、同時に仮想世界を充実させるという方向の進化を捨て去った。記号的ななにものか、より古い世代のゲームとでも言おうか、そういったものへの回帰でもあった。
なによりそれが強く表れていたのが、プレイヤーがキャラクターを仮装する機能である。実にさまざまな衣装が用意され、甲冑やちょんまげから隈取まであった。この機能はプレイヤーの自己アピール用に用意されたものだが、なにしろ、仮装と呼ぶ以外にしようのない代物があまりに多すぎたので、それまでかろうじて存在していたゲームの世界観とでもいうべきものは完全に破壊された。

さて、よくできたグラフィックというものはなんのためにあるのか?
それは、ゲーム内世界を演出するためにあるのだ。グラフィックそれ単体に美術的な価値を認めるのでなければ、それは演出の道具として世界観を構成してはじめてなにがしかの感動を呼び起こしうる。

しかし4以降のバーチャファイターには世界観はない。
対戦ツールでしかないゲームのグラフィックなど、外面以上のなんの意味もない。
そんなものにこれほどの手間と金をつぎ込んだところで、本当にそれは、見た目をよくする以上の意味はない。
記事を眺めていての、このしらけた思いは多分、その辺から来ている。


以下余談。

パンチがどう当たったからどう吹っ飛ぶ、とか、荷重を移動してパンチやキックを打った方がダメージが大きい……というような、物理シミュレーションを格闘システムに盛り込んでいくといった試みは無いのだろうか。

山之内氏「やってできなくはないんです。それで、売れるんならばやりますよ(笑)。ただ、『VF』というシリーズの括りだと難しいと思います。VFシリーズにはこの時にこう入力するとこういうコンボが決まる……という暗黙のゲームルールがありますからね」

VF5では、手付けモーション、あるいはキャプチャしたモーションによるキャラクタアニメーションを、プレーヤーの操作や一定の条件が成立すると再生するような仕組みになっていて、リアルタイムで物理シミュレーションを適用して姿勢制御をするようなことはしていない。このあたりは「VF」シリーズという絶対ルールがあるために、「ゲームとして」の割り切りなのだという。


割り切ったおかげで進化が止まってしまったわけですな。
ま、すでにブームは過ぎ去ったわけで、これだけ格闘ゲームが寡作になってしまった以上、進化の必要性もないんだろうけど。
結局、3D格闘ゲームにおいてはモーションこそが最大の表現要素なのだ。そしてその部分の表現は「手付けモーションの再生と当たり判定のぶつかりあい」から抜け出せていない。モーションに物理シミュレーションを取り入れるぐらいしか、もはや表現としては伸び代がないと思うのだが、そこを逃げてしまってはなにもかわらない。
そりゃVF3の作りこみ方はいかにもプログラマが死にそうなやり方だっただろうから、ああいったことをもう一度やれとは言えないし、難しいテーマなのはわかるが。「VF1を世に送り出したセガ」だからこそ先頭を進んでくれることを期待したかった気分はある。


余談その2
「世界観に対する感情移入」は宮台論あたりをひけばオタ的感性ですかね。
それが珍走団のごとき珍コスプレの導入でぶち壊しになった、いってみればDQN的価値観にオタ的価値観が破壊された、これに対する恨みみたいなもんが自分の中にあるのかも。
posted by yocc at 12:47| Comment(33) | TrackBack(9) | ゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月18日

ハーフライフ2 サバイバーに(一瞬)寄せた期待

ハーフライフ2サバイバー

…なんだ、FPS+ガンシューティングのゲームができるのかと思ったら。
ただのFPSでした。

(一応、先例としてカプコンのガンサバイバーシリーズがあるが、あれ、移動操作がへぼかったし)

しょうがないので妄想的ガンシューティングFPSの操作系を記して、一瞬見た夢への供養とする。

ガンコントローラ
(片手で支えることになるので、軽くする等して負担を低減)
 トリガー
 武器変更ボタン

レバー(左手での移動操作用)
 8方向アナログ(8方向移動)
 8方向ハットスイッチ(親指で操作する。視点変更用。首を曲げて瞬間的に右を向く、上を向くといった行動に相当)
 必要に応じてボタン数個(ジャンプ、しゃがむ等)
 
ペダル
 右ペダル:右を向く(右旋回)
 左ペダル:左を向く(左旋回)
 

アーケードゲームは、家庭用ゲーム機の性能が上がりきって、かつネット環境まで普及しだした現状、大型リッチインターフェイスに拘らなけりゃ、差別化できないよなぁ、などと思いつつ。
posted by yocc at 02:45| Comment(0) | TrackBack(0) | ゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月08日

コンピュータRPGはもうイラネ

ゲームが単調作業なのか、ゲームを作業作業にしているのか

プレイヤー側からの意見をば。
コンピュータRPGというのは、疲れてるときでもなんとなくぼへぼへと進めることが出来る。それが良いところであり……最近になって、実はコンピュータRPGというのはそこにしか価値が無いんじゃないかと思うようになった。
結局、コンピュータRPGというのは、労力は使っても意志力をかけらも費やさずに、達成感をお手軽に得るための手段となっているのだ。
っていうか、自分が書くよりも多分こっちの記事のほうが実感がこもっている。

ボタンを適当に押していると、画面の中でキャラクターが動き、敵を倒し、レベルが上がり、物語が進んでいく。戦略性だのナンだの、といったことは実は味付けに過ぎず、要はコントローラーを握っていればゲームが進んでいき、達成感のようなものを感じられればそれでいい。

よって、ゲームデザインとしては、
1.とにかく低ストレスでゲームが進んでいく
2.プレイヤーに、自分の力でゲーム内物語が進んでいく、と錯覚させる。

こんだけ満たしてればよろしい、ということになる。



自分はRPGは、疲れて何もする気がないのに時間が空いている、というテンション最低のときぐらいにしかやらんようになりました。

能動的に何がしかを求めているときは、ゲームやるにしても他のジャンル選びます。たとえばアクションゲームはタイミングや反射神経の妙、訓練によるプレイヤースキルの向上等を楽しめる。
もちろんゲームですから、ゲームの領域を超えたものはけして得られないわけですが、アクションゲームの場合はまだしも、費やした時間に対して得られる結果は一時的なものなので、ゲームに時間を費やしているという実感を持てる。
RPGにはどういうわけかそれがないのですな。際限なく時間を飲み込んでやめどころがなく、しかも、物語の進行や、あがったレベルなどで一応の成果が残る。ヘンな達成感があるわけです。
(物語を体験できるという意見もあるかもしれませんが、自分はゲームが語る物語にほとんど価値を見出さないので。というか良く出来た物語に遭遇するたびに「ゲームじゃない媒体で語れよ」と思う)

この変な達成感がよくないというか、自堕落への道(笑)
子供を持ってもゲームを禁じることはないだろうけれど、RPGだけはさせたくないですねえ。なんの苦労もなく、達成感だけは得られる、というのは経験させたくない。


ま、そんなわけで。自分はコンピュータRPGというものには批判的。
posted by yocc at 23:07| Comment(0) | TrackBack(0) | ゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月15日

ゲームで物語を語ることは可能か

ストーリー神話の崩壊とゲーム業界の「ストーリー病」
結局、ゲームは物語を語るには向いていないよな、と思っていたら、こんなテキストを見つけた。

【ゲーム】「主人公型」ゲーム心得 最終回 僕と主人公

主人公は、プレイヤーの分身という立場と物語の中心という立場を渡り歩く。両者は両立できないため、「プレイヤーは主人公である。主人公は物語の一部である。よってプレイヤーは物語に参加できる」という論法は成立しない。プレイヤーが(主人公として)主体的に物語に参加できるなんてのは幻想である。

それが顕著なのがイベントシーン(ムービーシーン)で物語を語り、合間の戦闘等をプレイヤーが埋める形式だろう。
イベントでムービーが始まったとたんに、主人公が自分の手を離れて“演技”を始めるのを見守った経験は誰しもあるはずだ。

もうひとつ、「主人公=プレイヤー」というタテマエは、ストーリーテリングにおける主人公の役割を妨げてしまうという問題がある。
物語において、主人公という存在は、受け手に対して物語のエントリポイントを提供する存在だ。物語世界における社会的な視点を提供したり、あるいは心情を描写することで共感の対象になったりし、受け手はこれをとっかかりとして物語を読むことができる。
ところが、主人公=俺、というタテマエがあるとこれが非常にやりにくいのだ。社会的立場は他のキャラクターに説明してもらわなくちゃならないし、心情描写はできないし、なにより己自身に共感なんてできやしない。

つまりゲームは、構造的に「物語を語る」のに向いていないんだろう。

…と、ここまで書いたところで以下のエントリを発見。
ジュール氏への反論 (2) - フィクション性の位置付け
インタラクティヴ性と物語性は根本的に水と油の関係である

ゲームそれ自体は物語ではありえない


引用先の論は難解だったり英文だったりして未だ読んでいないが、このあたりのことはRPG全盛時代(っていつだ?)に論じつくされているのかもしれない。
感覚的には、「物語を語る」というのは、作り手が物語を語り、聞き手がそれを聞く、という一方通行のものであるから、ゲームのインタラクティブ性と相性が悪いというのは理解できる。

現状、現実的な解としては、ゲームにおいてはストーリーは、演出の一種であると認識したほうがよいのだろう。
演出である以上、出張りすぎれば疎ましがられるのは当然である。



ノベルゲームについて

上記の「ゲーム」には、ノベルゲームというジャンルは省かれている。ノベルゲームにおいては、主人公=プレイヤーという構図は薄く、主人公はあくまで物語に属する存在だ※。そのため他のメディアと同じように、読み手に対する物語のエントリーポイントという役割を果たすことができる。

ところで、ノベルゲームの強みは文章中心に話を進められるというまさにそこにあって、登場人物の内面や心情の描写を行うのに、テキストというのは便利なメディアなのだ。つまり、共感しやすいキャラクターを描き出すのに向いている。
さらに、情緒誘導装置としてのBGMがしかけられ、ここぞという場面では「泣け、泣け!」とばかりに心理攻撃をしてくる。
まあ攻撃かどうかはともかく、情緒に対する音楽の影響力は大きいので、無理やり受け手を感動させることを目的とするならば、文庫などの活字オンリーの媒体よりも、ノベルゲームは相当有利な位置にいる。


※場所を移動したりといったプレイヤー参加型の要素を盛り込んだゲームもあったが、物語を語るという意味では基本的に邪魔。
ただ、主人公に共感させた上で、それを盾にプレイヤーに(主人公の立場で)重要な選択を迫るという手法があり、これは、ハマレば効果的。この手法は受け手が物語に参加できるというよりは、物語に対する感情移入度を増す技巧という意味合いが強い。そのかわり、選択肢に応じてその後の物語をきっちり書き分けなくてはならないので、作る側にとってはコストパフォーマンスが悪い。

この手法で印象的なのは「Phantom of Inferno」。きわどい場面で選択を「迫られる」感覚が秀逸。
posted by yocc at 00:44| Comment(0) | TrackBack(0) | ゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月02日

リプレイ流通

プレイヤー側が生成できるコンテンツの中で、現状のデザインのゲームでも生成できるものが「リプレイ動画」「スクリーンショット」の類である。

よく出来たアクションゲームでは、上手いプレイヤーのリプレイ動画は大きな価値があるのだ。
また、自分の傑作プレイや、笑えるプレイを他人に見せたいという需要もある。

これをはやくプレイヤーに開放して、手軽に流通できるシステムを作って欲しい。
ゲーム個々でやるのはあほらしい。
たとえばXBOX360なら、駆動できるスレッドがひとつあいてたら、360のOS側で手軽に圧縮・保存・配信が行えるような仕組みを作って欲しいものだ。


とりあえずはサービスで、どう収益するかというモデルは無い。
んだが、たとえば格闘ゲームの大会決勝戦のリプレイなんていろんなやつがみたがる(大会がちゃんと盛り上がればな!)だろうし、大勢のヤツがみたがるなら、当然、そこには価値が出てくる。
posted by yocc at 21:53| Comment(0) | TrackBack(0) | ゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

オンラインゲームの先の話

回線を通して接続される多数のプレイヤーをもっとも価値あるリソースであると認識すれば、現状はGoogle搭乗以前のWebになぞらえることができるかもしれない。

日本でもようやく、全てのゲーム機で端末機能が付き、常時接続回線が当たり前の状況になって、オンラインプレイヤーをリソースとして計算できる状況に入りつつある。
が、現状のままでは十分に活用できない。多くなったらなったで、玉石混交状態のプレイヤーの中から、誰を使えばいいかわからないからだ。
(自分はそれほど既存のオンラインゲームを遊びこんだわけではないが、現状はまず、自分にあったプレイヤー層を見つけるところから始める必要があり、これが一苦労。またハズレのプレイヤーに当たる確立もけっして低くは無い)

これを十全に活用するには、信頼できる評価軸が欠かせない。
たとえば、あるゲームの腕前に対する適切な評価軸があれば、以下のようなことが出来る。

・多人数プレイにおける適切なマッチング
・オープニングの単調なデモの代わりに、上手なプレイヤーのプレイを配信する

ゲームのアルゴリズム側から、使い潰せるのがミソである。

あるいは、「遊び相手として楽しいプレイヤー」という評価軸を得られれば、評価の高いプレイヤーになることにインセンティブ(端的にはなんらかの報酬)を与えることで、サービス全体の価値を高めることも出来る。
まあ、このあたりはやりすぎるとこのへんの状況を再現しかねない気もするが。結局はコミュニケーション能力や人気序列の評価になりそうだし。
とはいえ、オンラインゲームのプレイヤーというのは、本質的にサービス受益者であると同時にサービス提供者でもあるので、より良いサービスを提供するプレイヤーほど良い目(報酬)を得られるようにすべきとは思う。
無論、こういった報酬のシステムは、ゲームシステムの中にそれとなく入れ込むことで環境管理を行うのが最良なのではあるけれど、個々のゲームでそこまで考慮したうえでデザインを行うのは結構なコストだし、どのスタイルのゲームでもできるわけではないので、ベースとなるサービスでやってしまったほうが効率がいい。

まとめると、プレイヤー達には価値があり、ただし玉石混交で、そのなかで価値のあるプレイヤーを引っ張り出してリソース(コンテンツという呼び方も通じるんかね?)として駆動させるには、それなりに精度のよい評価軸が欲しいよ、とそういう話。

トラックバック先での「Gameの立ち位置はWebになぞらえるとどうなる?」という問い?には、Google登場以前てことで、1.0ぐらいじゃないかな、と。

ちなみに、次世代機の中では、LIVEはこの方向に進んでいる。が、どこまでいけるか。現状はややこしさばかりが先にたって、メリットが見えにくいようだ。
任天堂のサービスは、フレンドリストの内輪プレイヤーか、不特定多数か、だけが評価軸の模様。細かいところは個々のゲームで対応するスタイルで、上でいったような観点からは物足りない。
PS3に関しては、未だなにも打ち出していないので論外。
posted by yocc at 21:34| Comment(1) | TrackBack(3) | ゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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